このブログの検索ワードを見てみると、結構バラエティに富んでいます。
私がブログで書いてきたことについて検索ワードがヒットしているので、私が呼びよせてはいるのですが・・・。
そのなかでも、「世間の常識と自分の常識について」といったようなワードが何気に多いです。
自分の常識は世間の常識と合っているか?といったものでしょうか。
ただ、そういうことって、あまり気にしても仕方のないことなんですよ。
いろいろあり過ぎるから気にしても仕方ない
生きていれば、いろいろなことがあります。
仕事、家族、健康、家事、つながり、趣味、過去、いま、未来など・・・。
いろいろなことと関わり合いながら生きているわけです。
そして、以前に比べていろいろな方面からやかましい声も聞こえてきます。
このブログの検索ワードでヒットする、「世間の常識と自分の常識について」というワードは、今がそういう時であることを表す一つのバロメーターのような気がします。
そして、自分の常識を問うという事は、おそらく基本的には人との付き合いに関することが関係してくるのではないかと思うのです。
仕事・家庭・遊びの場など、舞台はそれぞれありますが、それぞれの場で、自分がどう振舞うかということ。すなわち、
「どう振舞うかな?」
「どうするのがベストだろうか?」
「あれで良かったのかな?」
「変に思われたかな?」
など、ことが起きる前・中・後に、それぞれの場のそれぞれのタイミングで、周りを気にして自分が動かねばならないという思いを表しているのが、この「常識」を考えるということではないかと。
ただ、繰り返しにはなるのですが、今の時代いろいろあり過ぎるので、そんなことまで考えても仕方ないんじゃないかと思っています。
「自分の常識は世間の常識」と考えて自由にいこう
自分の振る舞い・ことばを、周りがどう受け止めるか?どう受け止めたのか?そればかりを考えていたら、自分から表現されることは安全ではあったとしても、無味乾燥で中身がなく、つまらないものになってしまいます。これは同時に個性を消すということにもなるわけですから。
そして、そんなことばかり考えていたら、話の本筋ではなく、いかに外さないかというところだけに注力して考えるようになってしまって、本筋をまともに考える余裕がなくなってしまいます。
そして、余計なことを考えるから、本当はもっと本筋を極めたいのにそこに時間と思考を割けないから、不完全燃焼でストレスがたまり、時に悩んでしまうわけです。
自分の常識は世間の常識だろうか?と考えるのではなく、もういっその事、こう考えてみれば良いのではないでしょうか?
「自分の常識は世間の常識」だと。
余計なことを悩んでしまうくらいなら、いっその事、こう考えてしまうのもアリだと思います。
常軌を逸しない範囲で、ある程度自由にいくためには、これくらいでも良いのかもしれません。
だって、気にしていても人から咎められることはあるし、文句付けられることもあるし。
それなら逆に、自信を持って「自分は常識」くらいの勢いでいるほうがシャキッとするし、気持ちもスッキリします。
そもそも、そうでも思わなければブログなんて書けないですからね・・・。
ブログ・話・表現することと「常識」概念
「自分はあれで大丈夫だったかな?」は、すべての場所・ポイントで生じてきます。
それを考えるならすべてにリスクポイントがあるわけです。
ただ、思ったよりリスクではないことは多いですし、むしろほとんどはリスクではないわけです。少ないリスクを気にしても仕方ないです。
ブログを書くことは昨年の4月から始めていますが、書く前は、この「常識」的なことを考えてしまい、周りを気にしていたのか、「うまく書けるかな・・・」と何も書いていないうちからいろいろ考えていました。
ブログを含めて、話をすることや表現すること全般は、周りを気にしたら動きがぎこちなくなってしまいます。
ブログだけを見ても、見られることを意識しすぎれば何も書けなくなってしまいます。
この今日のブログの記事は、前々からいつか書こうと思っていたことで、それでもなかなか書けずにいたことでした。
ブログも習慣レベルにまで書き続けてきて、ここ最近周りを気にしなくなってきた気がしたのも効いてきてか、ようやく書けました。一歩進んだかな?
今日の、「自分に常識は世間の常識」。これは、この検索ワードで入ってきた読者?の方に向けてみると同時に、自分に対しても言い聞かせるつもりで、書いてみました。
気にするなよ。つまらなくなるからな!という具合に。
もう、そんなに気にしたって仕方ないですよ。
編集後記
今日はおととい租税教育をやった小学校から、授業のアンケートが子供たちから集まったということで連絡を受けて、送ってもらうことに。
どう書いてあるか、楽しみやら、恐ろしいやら・・・。まぁ、楽しみが勝ってます(笑)