炊事・洗濯・掃除、暮らしの一コマ。
暮らしのなかの動作、ひとつひとつにもっと真剣に向き合うことが、生きる原点な気がして、集中して取り組んでいます。
暮らしのベースを大事にすること
毎日は、仕事がメインで過ぎていっているようではあっても、生きていくということの根底には、暮らしがベースにあります。
暮らしの中では、炊事や洗濯、掃除といった家事が欠かせません。
かつて、一人暮らしを始めたばかりの頃、こうした家事は楽しんでやっていた記憶があります。自分だけのスペースのための、楽しい家事といったような感じで。
しかし、気がついてみると、そうした家事はいつの間にか雑務だという意識に変わっていました。面倒で、かったるい・・・。なんとなくそう思っていることに気付きました。
こう考えている自分に気付き、「あ、もっと家事とか、ちゃんとやった方が良いかもしれない」と思い、暮らしの原点をちゃんとやることにし始めました。
仕事だ、なんだかんだと過ぎる毎日が、少し変わるような気がして。
暮らしの動作に向きあう
暮らしの動作といえば、家事である炊事・洗濯や掃除、暮らしの一コマまで含めれば、朝起きて顔を洗うところから夜電気を消して寝るというところまで様々です。
そうした暮らしの動作にもっと向き合い、それ自体に集中していきたいというのが、今回の趣旨です。
たとえば私の場合、暮らしの動作の多くは、だいたいが何かをしながらやっているということが多いのに気付きました。
まず、家事である掃除や皿洗いをするときには、だいたいスマホでラジオを聴いています。radikoの過去のラジオが聴けるもので、選んで聴きながらやっています。
また、朝起きて、髭剃りをするときにも、同じように聴いています。
そして、歯を磨くときにも、スマホを見るか、本を読むかしながらやっています。
それらは、必ずしも必要かといえば、必要ではないです。なんとなく情報量は増えますが、むしろ今の情報量は半端ないものがあるので、暮らしに集中しているときくらいはセーブしても良いだろうなというのが、考えてみたところ。
むしろ、情報は入れないでそれだけに向き合うことが増えれば、頭がスッキリしてきたような気がしなくもありません。情報をセーブするという意味では。
そうして、それだけに集中してみると、案外新鮮だったりします。それ以外に何もしない・それだけに向き合うこと、そうした時間を作ることが、生きる原点に立ち返っているようで、生きる実感も湧いてきます。
暮らしを大事にするという姿勢
先日も紹介しましたが、松浦弥太郎さんの本、「自分で考えて生きよう」を読みました。
「はじめに」では、
「どんなに立派といわれる仕事や学びよりも、料理や掃除、洗濯という、日々繰り返される家事全般の仕事こそがもっとも尊い行為であり、そこにこそ真実があり、本当の学びや楽しみがある」
というお話から始まります。
本編はまだこれからという、はじめの一文を読んだだけで、「あぁ、そうだよな」と思ったわです。
特に、自分を思い返してみれば、家事なんか自動でできないものかと考えていたこともあるし、暮らしのベースではありつつも、適当にやっているという部分がありました。
これって自分自身の土台・基礎を軟弱にしているんじゃなかとも思い、原点に立ち返って、向き合ってみようかなと思ったというわけです。
まぁ、なかなか簡単にはいかないかもしれませんが、「暮らしが第一」ということを掲げて、しばらくやっていこうかなと。
編集後記
昨日は、夜飲みに出掛けたので、帰宅が23時頃になり、寝たのが0時頃。
この時間帯が、朝起きてブログを書くにはギリギリのラインですね。
今日も頑張りましょう。